平明と流行―山田弘子の俳句(1/5)

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   一 家族

 敗戦直後の昭和二十一年、仏文学者桑原武夫が雑誌『世界』に発表した評論の中で、俳句は老人や病人の消閑の具で、現代人が心魂を打ち込むに値せず、強いて芸術の名を要求するなら「第二芸術」と呼ぶべしと云いはなって、俳句界に静かな衝撃をあたえた。誰にも安易に生産されるジャンルであり、芸術品として脆弱であるという主張であった。
 たしかに、俳句はちっぽけな十七音の短詩にすぎない。おまけに、俳句にかぎらず芸術としての文学は、ほんらい、社会に有用なものではない。経済的にも道義的にも、実利実益から遠く切りはなされた、心の世界の遊び道具であろう。
 しかしながら、現に、社会における、人生における「俳句有用論」というものがある。短詩型ジャンルに属する文学は、すでに古代中世の和歌や連歌の時代から、哲学と恋愛と社交のために有用な装置であった。近世の俳諧においても、連衆と呼ばれる協同体が社会生活上、一定の役割を果たした。誰にも安易に生産されるがゆえに、俳句は大変有用な文芸なのである。
 成長期にある少年少女も、職業を持つ青年壮年も、子どもを養育することに専念する若い女性も、退職後の老人も、子育てを終えた主婦も、日常の「俳句づくり」をとおして他者、大きく云えば社会との関わりをひろげ、己が人生の意義を深めることができる。まなび始めの頃こそ単なる言葉遊びに過ぎないかもしれないが、数年たてば何らかのレベルの文芸に達し、季節をうたう五七五のポエムが、生きることの助けになってくる。これが社会、人生における「俳句有用論」である。
 初学者は身辺詠、家族詠から、門に入ればよい。その先に、果てのない文学、芸術の世界が広がっているのである。
 いわゆる台所俳句について、山田弘子は、句文集『空ふたつ』に収録された「厨」と題するエッセイで、〈女性俳句隆盛の原点はもちろん厨。かつて高濱虚子によって始められた女性の俳人を育てる為に誕生した「台所俳句」は、男性中心の世にあって画期的なことであったに違いない。そこからは長谷川かな女、竹下しづの女、杉田久女、星野立子、中村汀女などきら星のような女流俳句の先駆者たちが誕生した〉と、書いている。その系譜の先に、稲畑汀子や星野椿が、そして山田弘子もいる。
 自分の孫を句材とすることについては、自解句集『夜光杯』で〈孫俳句を否定する人もいるが、生きる歴史の中でこうした感動はしっかり残しておくべきだと思う。ただし私ごとをべたべた詠んではいけない〉と、述べている。実際彼女の句は、孫をあつかっても「孫」の語を用いず、自らを第三者あるいは母の立場において詠んでいる。
 弘子の身辺詠、家族詠の句をいくつか読んでみよう。
       ※
  ふる里は遠し夜店の螢買ふ
 第一句集『螢川』所収。昭和四十五年頃の夏。
 女性が結婚し転居し、だんだんと故郷から離れていく不安、淋しさがよく表れている。素直な句柄からわかるとおり、初学時代の作で、誰からも好感をもって迎えられたことであろう。
  主婦にある自由の時間秋灯下
 『螢川』所収。昭和四十五年秋。
 弘子俳句の原点となった句で、前書に「ホトトギス初入選」とある。転勤する夫につき従い広島市に移り住んだ弘子は、ある日、文化センターの俳句教室に入会する。子どもの頃親しんだ俳句を再び学んでみたいと思ったのである。通園バスから降りてきた幼い娘の手を引いて、そのまま遅刻しそうになりながら、毎回熱心に出席したと云う。
  両腕に戻り来し子の冷伝はる
 『螢川』所収。昭和四十八年冬。
 学校から、近くの公園から、あるいは塾から、帰ってきた子を懐に抱きとめたときの母の心情が、まことに温かい。上五の「両腕に」は、云えそうで云えない。
  魂送りして来し母の足濡れて
 『螢川』所収。昭和四十九年秋。
「霊(魂)送」は盆の行事で、七月十三日家に迎えた先祖の霊を十六日の夜、門前で苧殻を焚いて送る。弘子が生まれ育った兵庫県の和田山では、十六日早朝、桟俵の上に供え物をのせ、花と線香を携えて円山川まで歩いて行き、仏を流した。戻ってきた母の細い脚は朝露に濡れていた。
  勉強部屋覗くつもりの梨を剝く
 『螢川』所収。昭和五十一年秋。
 長男が関西の私立中学に入学すると、夫だけを広島に残し、二人の子を連れて大阪の千里ニュータウンにある自宅へ帰った。この句の時点で長男は高一、長女は小六である。弘子はエッセイで〈その頃は結構教育ママに徹したものだ〉と述懐している。
  友達のやうな夫婦や玉子酒
 『螢川』所収。昭和五十一年冬。
 夫は高校の同級生で、当初ほとんど交際がなく、卒業後の文通から親しくなったとエッセイに書いているが、弘子の照れ隠しかもしれない。昭和新世代の夫婦像である。
  七人の敵ある夫に寒卵
 第二句集『こぶし坂』所収。昭和五十九年冬。
 男は敷居をまたげば七人の敵がある。かつての日本でそんなふうに云った。伴侶のために栄養価の高い食事を用意する。良い妻、良い句である。ただし、外へ出て働く女性の増えた昨今、この生活感覚は理解されにくいかもしれない。
  われもまた厨俳人大根煮る
 『こぶし坂』所収。昭和六十三年冬。
 「厨俳人」も死語となった。厨と呼べる台所じたい、古い民家でもなければ、お目にかかれない。それゆえ記憶に残したい言葉ではある。季題季語の的確な選択によって、庶民の暮らしが味わい深く染みでた。
  みな虚子のふところにあり花の雲
 第三句集『懐』所収。平成六年春。
 花は俳句最大の季題であり、「花の雲」は桜花爛漫、満開の花を棚びく雲に見立てた、やや古風な季題季語である。鎌倉の虚子忌で得たというこの句も、一種の家族詠であろう。高濱虚子は昭和三十四年に没したものの、いまなお「ホトトギス」という擬似家族を束ねる、強大な磁力を持った家父長に外ならないからである。
  どちらかといへば悪妻豆の飯
 『懐』所収。平成七年夏。
 「豆飯」はソラマメやグリンピースを炊き込んで、薄く塩味をつけたご飯。白と緑の対比が目に鮮やかで瑞々しい。平成七年は結社「円虹」船出の年で、おまけに一月発生した阪神・淡路大震災のショックも癒えないうちから、新結社の主宰として東奔西走せねばならず、もはや平凡な主婦には戻れない。ゆえに「悪妻」なのであろう。
  柏餅母の手窪の小さかり
 第四句集『春節』所収。平成九年夏。
 母への思慕、恩愛の深さが小さな手の窪みから溢れでた。この句の鑑賞には、自解句集から弘子の文章をそのまま引用したい。
〈毎年五月が近づくと、母は持ち山から柏の葉を大きな笊一杯摘み取り、丁寧に洗って広げ干す。また蓬を摘んできて茹で上げ、とんとんとすりこぎで叩いて細かくする。青い匂いが家中に漂う。端午の節句には一日台所の湯気の中で柏餅づくりに精を出す。小柄で小さな掌から生まれる柏餅を子供たちは待ち構えるのだ〉 
  兄さんがあの世から来て相撲草
 『春節』所収。平成九年秋。
 歳時記で「相撲取草」は春の季に分類される「菫」「パンジー」の傍題でもあるが、この句ではオオバコ(車前草)かオヒシバ(雄日芝)、メヒシバ(雌日芝)のことか。茎を絡めて互いに引っ張り合って切れるまで競い合う、子どもの遊びである。弘子には三人の兄と一人の妹があった。すぐ上の兄はこの句が詠まれる三年前、六十代半ばで亡くなっている。年齢が近いせいもあって、幼い頃大自然の中で妹を含めた三人でよく遊んだと云う。
  霜の夜は君が攫ひに来はせぬか
 第六句集『残心』所収。平成十三年冬。
 この年の秋、高校の同級生でもあった夫は大学のクラス会に出席していて突然倒れ、十日後、急性心筋梗塞であっけなく、さらわれるようにこの世を去った。六十七歳であった。冬が来ても、作者はまだ茫然としたままである。
  寒卵こつんとたつた一人の音
 遺句集『月の雛』所収。平成二十一年冬。
 寒中の卵は永く貯蔵でき、滋養に富むと云われる。弘子が好んで詠んだ句材でもある。冷たい台所で「こつんと」響いた音に、晩年の孤独を感じたものであろう。
       ※
 山田弘子は、昭和九年八月兵庫県北部の山間の町、和田山で生を享けた。
 母は、女子高等師範学校を出て小学校教員として働く、云わば地方在住のキャリアウーマンであったが、同時に、田舎の長男の嫁として厳しい舅姑に仕えねばならず、弘子が小学校に上がる頃から心臓の病で床に臥しがちであった。この病弱で痩身の母は、八十歳まで生き延び、〈この世であなた方とのご縁を頂いたことを心から感謝しています〉と云う遺書を残した。
 弘子は、地元の兵庫県立生野高等学校、京都北部の郡是製糸誠修学院をへて、兵庫県南部にある武庫川学院女子短期大学英文科を卒業したあと、いったん大阪で商社に就職し、昭和三十四年結婚して、一男一女をもうけた。結婚後は転勤する銀行員の夫に随い、大阪から広島、大阪、神戸、東京と転居をくり返し、昭和五十八年神戸に帰って、ようやく安住の地を得た。
(つづく)

by tsukinami_819 | 2019-02-06 06:43 | 著書・寄稿 | Trackback | Comments(0)
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