秀句鑑賞ごっくん俳句(27) 細見綾子

   細見綾子     国光 六四三


 気になる物故俳人の秀句五句、おいしくいただくごっくん俳句。今回は、二十二歳の若さで夫と死別し、自らも胸を病んで療養生活を送ったのち、戦後は俳誌「風」主宰の沢木欣一と結婚し、夫婦和して息長く活躍した女流俳人。
 細見綾子――明治四十年(一九〇七)兵庫県生れ。大学卒業と同時に結婚したが二年後夫が結核で死亡したため、丹波へ帰郷。母も亡くなり自身も病いに倒れて療養中に俳句を始め「倦鳥」の松瀬青々に師事する。昭和二十一年創刊「風」に同人として参加し、四十歳のとき沢木と再婚して金沢に、十一年後夫の文部省への転任に伴い、東京に移り住む。前向きに長く活動して、第二句集『冬薔薇』で第二回茅舎賞、第五句集『伎藝天』で芸術選奨文部大臣賞、第六句集『曼荼羅』等の業績で第十三回蛇笏賞を受賞した。平成九年(一九九七)没。
  そら豆はまことに青き味したり
 昭和六年作。塩茹での蚕豆である。ただそれだけの句ながら、闘病生活のなかで常に生と死のあわいにあって自他の運命をじっと見つめる、作者の研ぎ澄まされた精神性に戦慄をおぼえる。初学の作にして珠玉の一句。
  つばめつばめ泥が好きなる燕かな
 昭和十三年作。転地療養のため昭和九年から大阪府池田市で家を借りて、ときどき丹波へ帰る生活をしていた。同じころの燕の句の自解で「丹波の家の土間から吹き抜けの高い天井に天窓があった」とする。子規直系で関西に一派をなした師の松瀬青々を前年に喪った影響なのか、この年には〈ふだん着でふだんの心桃の花〉など秀句が多い。
  帰り来し命美し秋日の中
 昭和二十年作。前書に「十月廿五日沢木欣一氏帰還三句」とある一句で、作者にとって決して忘れられない作品だろう。二年前東京まで出征を見送った沢木欣一が生きて帰ってきて、富山へ帰る途中まず丹波の綾子のもとに立ち寄ってくれた。二人は二年後結婚し、子宝にも恵まれた。
  足袋あぶる能登の七尾の駅火鉢
 昭和二十九年作。句会のため七尾市へ出かけたとき、能登半島の玄関口である七尾駅で詠んだ句である。十年余り金沢市に住んだが、同じ富山県内でも能登へはそれまで行く機会がなかった。行商の女たちが茣蓙に油紙をとじつけた雪合羽をはおって、一時間に一本しか来ない列車を待つ間、鉄製の火鉢で暖をとっていた。
  女身仏に春剥落のつづきをり
 昭和四十五年作。綾子の代表句。三月の春雪が舞う日、奈良の秋篠寺を訪ねた。伎芸天を見るのは初めてではなかったのに、冷え冷えした堂内で黒い乾漆がはげて下地の赫い色が見えた仏像を仰ぎ見るうち、生々流転の思いに新鮮な感動をおぼえた。上句は初出時「技藝天に」だった。
《参考文献》沢木欣一編『細見綾子俳句鑑賞』東京新聞出版局


by tsukinami_819 | 2017-03-05 12:00 | | Trackback | Comments(0)
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