上田五千石に学ぶ「俳句に大事なこと」

上田五千石さんの『決定版・俳句に大事な五つのこと』(角川学芸出版刊)は、俳句入門の名著です。
これから内容の一部をご紹介しますが、ぜひ実際に、実物を手にとってお読みください。
上田五千石:ウエダ・ゴセンゴク。昭和八(一九三三)年生、秋元不死男門下。平成九(一九九七)年没。「氷海」同人を経て、「畦」創刊主宰。

【眼前直覚~「いま」「ここ」に「われ」を置く~】
俳句は「いま」ということ、「わたくし」ということを大切にする。「只今眼前」であり「たった一人の私」である。時空のこの一期一会の交わりの一点に於いて一句はなる。昨日の私でもなければ明日の私でもない。だからこそ、俳句は「言い切る」ことを絶対とする詩型なのだ。

煖房の車窓から見て、冬の田を詠ってはならない。冷房のビルの窓から見おろして、日盛りの町を句にしてはならない。眼に見えているというだけで、眼前とはいえない。対象と同じ空気の中で、真に見なくて、直覚のすべはない。

決して「他人(ひと)ごと」の句をつくってはならない。そこにそれが在るから写しとる、というのでは写生といえない。「もの」と私が、のっぴきならない関係になるのを待って、はじめて独自の視角が生まれる。「他人ごと」の句は俳句ではない。

「自分を入れなくては俳句にならない」と言うと、情を叙べることと受け取るむきがある。「もの」に触れ、「こと」に当たっての、たった一度の(未だ曾って誰も有しない)「感動」を体験することに「自分」が在ることを忘れているのだ。「われ」「いま」「ここ」に腰を据えることが大事。

俳句では拱手傍観、というのは許されない。他人を詠うにも、自分とののっぴきならない関係にあって作中に引き据えなくてはならない。作務僧が何かしている、では句にならない。炭焼が炭を焼いているだけでは報告だ。作務僧と語り、炭焼と触れ、その人の思いに感じ入らないでは俳句ではないと心得たい。(拱手傍観=きょうしゅぼうかん。腕組みして観ているだけで何もしないこと。)

誰にもゆずれない自分の人生―そこでは自分が主役だ。それを如実にするのが俳句だ。俳句は「われ」が主役の時だ。「われ」という主役をぬきにして、俳句はない。

【現在】
俳句作りは振り返ってはいけない。振り返るから、年をとり、老いるのである。回想、回顧の情を述べていては、繰り言だ。

【もの】
俳句が叙述に終始しようとするとき、私は「もの」を“一品添える”ことを心掛ける。「こと」に「もの」を介入させて、句に腰をつくるのだ。“一品”の具象によって、イメージが強化されるのは、やっぱりトクだ。

【初心者はトクな道】
俳句の内容とか、表現とかに、何の制約もない。ただ、ながい間の実作者の体験の積み重ねが、ソンかトクかを識別している。たとえば「観念」より「事実」、「抽象」より「具象」がトクであり、「季重ね」や「二切字」がソン。「空想」より「写生」、「こと」より「もの」がトク。「過去」や「未来」より「眼前いま」がトクという具合だ。初心者はトクな道、やさしい方途でいきたい。

【自在な眼】
俳句をつくるのに“構え”てはいけない。日常茶飯、常住坐臥、普段着の気持になることが大切である。自在さが肝要である。そうでなければ、何も見えてこない、リラックスしないと、自在な眼が働かない。(「リラックス」の名訳に「大いなる緊張」があるが、私の更なる名訳は「油断なきだらしなさ」である。)

【取合せ】
俳句は二つの事物(もの)を取合せればいいのです。その二つの事物の一つは大方季語ですから、“季語と事物”の取合せです。その取合せの佳いのを上手と言い、悪いのを下手と言います。取合せて作りますと句は多く、しかも早く出来ます。こんなに作り易いことをみなさん御存知ないのが口惜しいことです。(『去来抄』の芭蕉の言葉の五千石訳より)。

「取合せ」―遠い二つの物(季語と事物)をアナロジイ(類比)、すなわち、どこか、何かで通い合うところを発見して一気に結びつける―は詩の原理である。いわゆる二句一章の問題ではない。俳句という短詩型の本質である。

十七字(音)で物を述べれば、ただの十七字(音)である。その十七字(音)を二つの部分に分ちて、それを互に関らせれば、その間にクレバスを覗くことができる。そこにポエジー(詩)の世界がある。(クレバス=氷河や雪渓の割れ目。)

「一句一章」で詩ができるという説は誤りです。というより、そんなことはできないのです。一見「一句一章」で仕上げているように見えても、詩として成り立っている句(俳句)には「二つの相反するものの調和」が達成されているものです。

世に「一句一章」の俳句があるという説を聞くが、「一句一章」に見える文体のことであろうか。詩は二つの事物の関係がなくては発生しないのであるから、俳句は「一句一章」に見えても“二物衝撃”の詩であると正しく考えた方がいい。「一句一章」を平句(ひらく)の「ひとへ」と等しくあつかえない所以である。

【定型】
俳句は定型詩―。定型というのは結局のところ、日本人の生命のリズム、心情の流れに則して、快適にまとめた調和であって、言葉の組成をもっとも美しくなるかたちになるように、高能率的に配されるように練り上げられた「型」である。芭蕉の「舌頭に千囀せよ」というのは、その「型」に「定」まったか否かの検分にほかならない。

【季語】
季語というものは自然そのものではなく、日本人の生命感、心情、美感覚といったものに溶かしこまれ、深くこなされた自然への了解を基にした言葉であろう。だからリアルであり、アイディアルなものと言える。不思議な特殊言語であり、弾性があり、磁性がある。

季語はなるべく手つかずのまま用いたい。「山眠る」が一番美しく、「眠る山」がそれに次ぎ、「山眠り初む」とか「山深眠る」などと応用すると品下る。季語はそれ自体磨きぬかれた宝石のような言葉だからだ。

【切字】
「や」「かな」「けり」は切字の代表だ。「切字はたしかに入たるよし」という芭蕉の言葉は初心の者に断定の精神を形で求めたものだ。俳句は十七音断定の詩。言い切る決意が詩型を生かす。

俳句は俳諧の発句の略であるから、平句(ひらく)とはちがっていなければならない。眼前の情景を平板に五・七・五にしただけでは、「ひとへ」の句づくりであり、平句の位になる。そこで、「ひとへ」を仮に「ふたへ」に転じる方法として「切れる」ことを心がければいい。こころみに切字をつかって句づくりをする「ひねる」のもいい。異質の配合をするのだ。但し、直覚、直覚でいく。

【挨拶の心】
夏はすずしく 冬あたたかく 春のどやかに 秋はさやけく
俳句は読み手を不愉快にしてはならない。あいさつのこころです。こころづかいです。句の品が下がるのは、ここのところを欠くからだ。

【諧謔】
「諧謔」とは「人の心をやわらげ面白がらせる言葉の意」(『岩波漢語辞典』)ということだそうである。それならば、滑稽の文学であり、諧謔の詩である俳句は「人の心をやわらげ面白がらせる言葉」の集まりでなければならない、と言うことになる。俳句―人の心をやわらげ面白がらせる言葉の集まり。

【句会】
恥をかくことを好むものはいない。だが、恥をかくこと、恥を積み重ねることで、真実、われわれは、はじめて自らを叱咤し得ること、誰しもおぼえのあるところである。「恥掻場」の額をかかげる茶室のことを読んだおぼえがある。句会など、さしずめ、かっこうの「恥掻場」ではないか。

【吟行】
「船」を見にゆくなら、「舟」偏の文字くらい検(しら)べておきたい。「船尾」「船首」「船橋」「舷灯」「舷梯」「舵手」「艙口」―。いくつもある。「舟」の部分で、「舟」全体をあらわすことができるなら、俳句ではまったく好都合になる筈だ。

【名句鑑賞】
名句を暗記する。俳句の勉強法はついにはこれに尽きるかも知れない。
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by tsukinami_819 | 2013-12-01 11:11 | 読書感想 | Trackback | Comments(0)
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